(第三十話) 辺境と呼ばれた地

・辺境・ そんな言葉の抑揚は 私の好奇心を
揺さぶるものだった。
何故あの様に 閉鎖された空間を選んだのか?
世間から身を隠し 生きて行かねば成らぬ理由が
この地には有ったのだろうか?ついそんな思いに
囚われてしまう 時代変化に逆らえず 日本中の
山里から人が去り出すのは昭和三十年頃 この
国が 高度経済成長へとひた走り出す時期から
始まった様で 此処に取り上げる鈴鹿山系深くに
抱かれる 滋賀県永源寺町の奥の奥廃村茨川も
そんなひとつであった 鈴鹿の地へと初めて足を
踏み入れた昭和四十年代末 もう直接の接点は
失われて居たのだが 加わる事と成る猟隊には
其の前身に 空家へと放置された民家を借り受け
其処を基点とし この界隈での鹿猟を続けて居る
それは年月を五十年も遡らねばならぬ 昔話と
成ってしまった様だが? 現在では悪路ながらも
茶屋川沿いに伸びる茨川林道が取り付けられて
その路を使い辿り付く事も出来るのだが 当時は
三重県側新町より 青川を遡り治田峠を越える
道とは名ばかりの踏み後を辿るルートか 御池川
上流君ケ畑の更に上から ノタノ坂を超えて入る
しか無かったもので 正に陸の孤島と表現するに
相応しい佇まいが其処に有った。

茨川周辺の流れ
住民の生業は 行政上帰属する滋賀県永源寺町より 何故か三重県側との交流が盛んだったらしく 離村時は
知己を伝って 其方へと移り住む人が最も多かったと伝え聞く

なぁ もう一度 あの茶屋へ行ってみたいのだが・・・」 昭和53年秋のある日 猟の世界で親とも慕ったT氏の
唐突な申し出に私に異論が有ろう筈も無く 二つ返事での同行を願い出る 勿論話題にしか知る事の無かった
茶屋と呼ばれるかの地を 我足そして目で確かめたい願望が強かったものなのだが。

ゴトゴトゴト
と青川沿いの地道を車は 行ける処まで突っ走り 後は不鮮明な渓沿いの踏み後を 遥か彼方山向こう
目的地向け歩き出す 岩盤を刳り貫いただけの隋道は此処に人の生活臭を残し 其処を抜けるとダラダラの昇りと
成った ここいらの踏み後は割にはっきりと残り更に上へと導く 傍らに祀られる朽ち掛けの祠や野仏が このルートを
生きる術と利用した 山人の思いが切なく強く伝わり 思わず頭を垂れる。     所々深い藪に飲み込まれそうな
峠道も行方を迷わせるものとは成らず 青春時代をこの地に生きたT氏が今回一緒なのだ    「どっこいしょ!
腰を下ろし時代物の逸話を昨日の様に語りだした そんなT氏の視線は 遠い昔駆け抜けた猟野の先私が知らない
地にと想いは飛んで居る様だ? 私は只 「ふんふん」と頷くだけしかない  一層急に成りだす踏み後を 這うように
昇って行くと突然 伐採され明るく開けた冶田峠西斜面へと跳び出した。
植林されたばかりの 萱と雑草に覆い尽くされた先
遠く切れ込んだ其の場所が 目指す茨茶屋 茨川
其の地だ 割に緩い下り坂を先行駆け下る 終着点
伊勢谷の落ち合いは どんどん間近に迫り出して
何か人の営みの名残がしだすと感じたら  思い
掛けない早い到着と成り 樹木の間から覗き見る
家並みは しっかと雨戸を閉ざし静まり返る
茨川林道はこの時 茶屋川本流折戸で橋が失われ
気の遠く成る程長い 茶屋川遡行で入る登山者は
居なかった様で 人の気配は皆無だった 数軒の
廃屋を見送り 似つかわしくない立派な鳥居を構え
社が対岸の森の中に潜み 振り返ればノタノ坂超え
踏み後も見えてくる筈。
ザバッ! チャラ瀬が続き穏かに流れ下る 茶屋の
流れに跳び込むと 火照った足をジンジン刺す様に
冷して来る渓水が 実に心地良いではないか

今此処辺境の地茨川へ立ったのだ・・・・。

背嚢内を弄り取り出した 二間半の竿を伸ばすと
もどかしげに餌を付け 緩やかな水面を撫でる様に
誘いを掛けた バシャッ クネクネ イモナはいとも
簡単に次々竿を搾る 魚影は信じられない程濃い
のだが サイズは餌不足に成るのか細かいようだ

昭和50年頃の鈴鹿三重県側での釣り
昼食用に中頃のイモナを幾つかキープ 更に上流目指しイモナ一色の遡行は続く 渓沿いでも人の往来は少ない様で
藪も深く足元は心許無い ん? 渓水に洗われる白い物体が目に止まる? 良く見ると鹿の頭骨の様だ 後ろのT氏
振り返り 「此処の山は どんな攻め方をしたもんかね?」 懐かしげな目で周囲を見回していたT氏は不意を突かれ
ハッ!と我に返った顔で見返す きっと脳裏に浮かぶ多くの出来事や想い出は T氏を其の時代にタイムスリップさせて
しまったのだろうか?  「うん 此処はなぁ」 嬉しそうに語りだす過去 この空間に今蠢く二人 30年もの歳の差は
無いにも等しかった 同じ事を追い求め共通の認識を持ち合わせる二人の迷い人は 深い緑の中へ埋れて行くのかも
何か大きなものに見守られながら。


廃村茨川に置いては 多くの紀行文随筆が残ります 惟喬親王伝説等の係りは 専門的な文献にお任せし
その昔 茨川奥左岸へと出会う蛇谷に有ったと云われる銀鉱山は この辺境の地に何故人の営みが有ったかの
謎解きのひとつに成る様です 新町より治田峠を越え駆け下る事になった谷筋は茨川方面から望むと 日出る東方
遥か遠く鈴鹿の山波に隠れる三重伊勢の国へと向う 茨川住民が名付けただろう谷の名は 伊勢谷 そう呼んだ
当時の思いがじわり伝わる様です この地へと足繁く通った先人先輩諸氏も既に多くは故人と成られ 興味尽きない
逸話の数々さえ 聞く事が叶わなく成りましたが 茨川 この地を語る時愛着を込めては 茶屋とだけ簡単に呼んで
居た事を最後に書き残します。

                                                             oozeki